苦痛を苦痛として受け入れる

今日長距離お散歩していて、自分の中には、「冗談油」みたいなものが存在しているな。とおもった。ちょっと嫌なことがあっても冗談にしてみたり、最近気に入っている歌を頭の中で流したりして、行動する上での心理的な摩擦を軽減してくれる。自分で自分のご機嫌をとっている。お散歩の最初の方は、「冗談油」が体に満ちていて、関節がスムーズに動く。でもだんだん疲れてくると、油は乾いて行って、関節がギシギシいってくる、肌が乾いてくる。やがて不機嫌になる。苦痛が訪れる。

 

村上春樹の「約束された場所で」という文庫本を読み始めている。オウム真理教に入っていた人に、村上春樹がインタビューしていく本。まだ一人目のインタビューを読んでいる途中なんだけど、どんどん引き込まれる。自分も瞑想が習慣なので(1日10分程度だが)、恐ろしいことだが、オウム信者と考えることの雰囲気が似ているからかもしれない。

 

一人目の被質問者は、客観的データを集めて、仏教の正しさを証明して、先進国に浸透させ、人々の苦痛を取り除くということを考えている人だった。

あくまで仏教は苦痛を取り除くための道具であって、道具自体に対した意味はないという道具主義的な考え方を貫いている人だった。その人にとって、仏教の大目的は、「苦痛を取り除く」ことなのだ。

 

回りくどい言い方になってしまったけれど、言いたいのは、「苦痛を苦痛じゃない何かに変換する能力を完全に身につけた人間はどうなの」ということだ。完全に、ではないけれど苦痛を苦痛じゃない何かに変換する方法は感覚的にわかるきがする。苦痛を外側から観察するのだ。遠くのものを見るような感じで。そして、自分と切り離す。ものとして扱う。

 

インタビューで面白かったのは、オウムの人々は、精神的に強いがゆえに、全然仕事が進捗しない。ってことだった笑。仕事が遅れたからってなんなんだ。上司に怒られたってなんなんだ。上司に怒られて、むしろ自分の汚れが落ちました清々しいって感覚になってしまうらしい。でもそんなんじゃ勿論ダメだろう。

 

例えば、医学だって、身近な人を病気で失う苦痛なり、怒りのようなものがなければ発展しないんじゃないか。

 

日常だって、苦痛がなければ平板でつまらないものになってしまう気がする。やっぱり苦痛は苦痛として、健全に受け止めるべきだろう。