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片岡球子展。。。

道立近代美術館でやっていた、片岡球子展に今さっき行ってきた。

 

なんだか疲れた。絵を見ることはほとんどないから、20分くらいするとぐったり疲れた。どうにか、目の前のどう解釈したらわからない絵を、言葉で考えたり、強引に消化しようとするから疲れる。そんな絵の見方はあんまり楽しくないっていうか、暇つぶしくらいに肩の力が抜けてた方がいいもんだよね多分。

 

片岡球子、しらなかったんだけど、こんな感じの絵。

www.moma.pref.kanagawa.jp

なんだか人物画不細工だったなあ。小学生みたいな感想だけれども。実際の人物の写真もあったんだけれど、全然似てない、っていうか、不細工成分が増しましだった。たぶん不細工が好きだったんじゃないかな、球子さん。

 

あと、目が怖くって、何考えてるんだろうこの人、みたいな感じ。にもかかわらず、こういうおばちゃんいるよね見たいな共感もある。なんだか不思議な感じですねえ。まあ、こういうのは、片岡球子の絵ってよりも、人物画はそういうもんなのかもねえ。。

 

解説読んだんだけれども、球子は、医者とか患者、学者、僧侶なんかの、特殊な職業についている人物の精神性や個性を表現することから初めて行ったらしい。精神性を絵から頑張って感じ取ろうとしたのだけれども、、、笑まあ、そんな鑑賞の仕方では当然疲れるわけですよ。もっと作品そのものを重視した見方をすべきだった。

 

つまり、例えばこういうことです。

 

椅子に座った特攻服?の青年の人物画があった。若いんだけれど、凛々しくて、信念みたいなものがありそう。だけれども、その信念にはまちがっている部分もあるってことを感じる。そんなことを見てて思った。でも何というか、それは最近あたまの中で考えてたことそのもので、「熱意や信念さえあれば必ず報われるなんて嘘。冷たく考えることが必要だ」っていう自分の考えや、最近知ったインパール作戦は兵站を無視した愚の骨頂みたいな知識を、ただ再確認しているだけじゃないか。。。という。何というか、それでは意味がないんじゃね、という。虚心坦懐?に見ることって難しい。自分っていう枠とその限界、みたいなものが悲しいですね。あんま成長できないんじゃないか自分という。その部分は少し絵の青年と重なる悲しさはある。若いので経験が乏しくて、信念はまちがっているみたいな部分と重なったみたいな感じはあった。

 

あともう一点だけ。何とも当たり前なことなんだけれども、人物画にはその人が着ている服も一緒に映り込む。球子はすごく服の模様とかにも凝っていて、この模様魂こもってんな、的な。つまり、「服装にはその人の精神性見たいなものが宿る!」。すごく、大学入ってからというもの、「ファッションは何のためにあるのか。いらねえんじゃね?」という自分の道程くさい謎に対する一つの答えが見つかった気分で感動です。